41 ダックスフントのワープ

ダックスフントのワープ (文春文庫)

ダックスフントのワープ (文春文庫)

 過去、日本ペンクラブのイベントで作者である藤原伊織の講演を聞いたことがある。亡くなる直前だった。癌に侵されていると聞いていたのに、講演中に煙草休憩を入れていて、その自由な言動に興味を惹かれた。それから藤原伊織の作品に興味を持ちつつも、なかなか踏み出せないまま、約五年の歳月が流れた。
 だから古本市でこの本を見つけた時、何かに導かれて手に取ったような気がした。自分で読みたくて探して見つけたわけじゃない。古本市という場所でこの本と巡り会えたことは愛しい奇跡であり、避けられない必然であったのだろう。
 藤原伊織の文体は、どこか村上春樹を彷彿させる。淡々と進み、クールで突き放された印象だ。でも春樹とは違って、遊び要素が少ない気がした。無駄な表現がないとでも言うか、すべてが計算され尽くされていて、理系っぽいイメージを受けた。わたしの好きな、理系腹黒男子だと思った。冷淡というよりは冷酷な小説で、でもそのくせ温かい愛しい世界に手を伸ばそうとしているようにも見えた。エロ要素が少ない分、村上春樹より好きかもしれない。
 ダックスフントが旅をする想像のお話を、家庭教師先の女の子にしてあげるという軸の小説だったが、その想像世界と現実世界とのバランスがとても良かった。複雑でドロドロしがちな現実世界を慰めるように、想像世界でダックスフントは純粋に生きて、奮闘する。その二つの世界を繋いでいるのが、家庭教師先の女の子、下路マリだ。広辞苑が好きな自閉的な少女マリは、難しい言葉をよく知っていて、でも知らないことがとても多くて、主人公とのそのやりとりが、読者が幻想世界と現実世界の行き来を円滑に行うためには必須となっている。二つの物語が交差しているというのに、滑らかな印象を受けたのは、このマリの存在が大きいだろう。
 結末も衝撃的で、全体を見渡せば、残酷な小説と言えるかもしれない。実際、そういったレビューは多く見受けられる。しかし救いようなのない小説なのに、とても愛しく感じてしまうのは何故だろう。そう考えた時に、残酷の中にもそこここに愛が散りばめられているのだとわたしは思った。虚無感やメランコリックを愛するわたしから見れば、この小説は完璧なまでに愛される資格を持って存在している。
 生きているということは残酷で、けれどもとても愛しいもの。同じような性質を持ったこの小説は、まさに生きた小説なのだ。